こんにちは! サヘランです いかがお過ごしですか
今日の記事は、幸せに生きるって何?っていう根本について深堀りしています!
700万年前に分かれたチンパンジーと人間の基本的違いについて、京都大学霊長類研究所の松沢哲郎教授は話されました。
チンパンジーは今そこにあるものを認識・記憶する能力は人間よりはるかに優れています。
人間は代わりにそこに存在しないものについてまで認識する能力に優れています。
たとえば、チンパンジーは目の前で行為が行われると嫉妬しますが、見えない場所での行為や過去になされた行為については一切問わない。
人間は逆で、見えない場所でなされた過去の裏切りを、永久にぐじぐじと問い続けるというわけです…。
今に集中して幸せに生きることと、明るい未来をデザインして社会的に生きることとはバッティングしがち。
かといって、未来を夢見ることがきっかけで今を犠牲にすれば、未来になって「しまった」と後悔を抱きがちとなり、そうした犠牲を取り返すぞという感じで損得の亡者にもなりがち。
ということは、人間はチンパンジーよりも明らかに幸せじゃないってことでしょうか?
『今、ここ』に集中して幸せに生きることの価値が見い出せます!(^^)
『今、ここ』に在る『直接体験!』に生きる先住民ピダハンとは
アマゾンの先住民ピダハンの世界観は、直接的な体験のみに基づいています。
「見ることは信じること」で、「信じることは見ること」なのです。
ピダハン語は「リカージョン(再帰)」の関係節が存在しない、世界でも珍しい言語です。
たとえば「背の高い男が家に入ってきた」という関係節の表現はない。
「男が入ってきた。彼は背が高い」としか言いようがないのです。
関係節では直接的な体験の度合いが減じてしまうのです。
私たちの言語は、関係節でどんどんと膨らませれば、経験できないような夢や未来のビジョンの文章も思いのまま…
なのですが、必要悪としてネガティブな不安や心配や後悔の文章も組み立てるのです。
言語のリカージョンと夢見る能力の関係については、以下カードをクリックしてご覧ください。
ピダハンの言語と文化は直接的でないことを言葉にしてはならないという文化の制約を受けています。
彼らは自分たちが直接見たものしか信じることができません。
ピダハンの村に入った宣教師だったエヴェレット氏は「神」の存在を伝えられませんでした。もともと悩みもなく幸福な彼らに宗教は必要とされません。
結局エヴェレット氏はキリスト教の布教に失敗し、なんと無神論者に改宗したうえで言語学者になりました。
ピダハンの人たちは、自分たちの言葉を「真っ直ぐな頭」と言い、
異国の言葉を「ねじれた頭」と言うそうです。
ピダハンは今現在を生きる人たちで、過去の後悔をすることも、未来の心配をすることもなく、現在だけをありのままに受け入れて、常にリラックスした状態で幸せを感じながら生活をしています。
彼らの会話はすべて現在形で話され、過去、未来といった概念も持たないそうです。
一人づつが動詞一個以下のシンプルな言葉を口にし、それが全体として一つの物事を表すように構成されています。会話全体が、一人の語りのようにもなるのです。
ピダハンの言語に現在形しか存在しないのは、過去形も未来形も、ピダハンの人たちには必要ないということです。
後悔の気持ちや罪悪感を表すのは、言葉ではなく行動です。
「数がない」
「右と左がない」
「色名がない」
「神もいない」
などビダハン語にはないものが多いですがピダハンにはなぜ、それらが必要ないのでしょうか?
色名がないのは日本語も同じ、きっとずっとなくても困らなかったからですね。
ないといえば、ピダハンには、抑うつや慢性疲労、極度の不安、パニック発作など、産業界の進んだ社会では日常的な精神疾患の形跡が見られないのです。
また、ピダハンが心配だという言葉を発することは聞いたことがないそうな…。ピダハン語には「心配する」という語彙がないからです。
ピダハンの村に調査で来たMIT(マサチューセッツ工科大学)のスタッフが、「ピダハンはこれまで出会ったなかでもっとも幸せそうな人々だ」と評したほどです。
ピダハン語の発見によって、言語学の世界は、人間の言葉はどこから発生したのか、
私たち人間を人間としているものは何なのか、という根源的な問題に直面しています。
あなたはこの言語学の問題提起に、どのような答えを見い出すのでしょうか?
あのスティーブジョブズがスピーチで伝えたかったこととは
皆さんご存知、アップルの共同創業者スティーブジョブズがある大学に招かれた時のスピーチからです。
彼は癌もわずらった経験があったことから、一日一日を大切に生きていました。
If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?
『もし今日が人生最後の日なら、お前のやろうとしていることは、本当に心からやりたいことか?』
もし自分自身に問いかけて、NOが3回続いたら、何かを変える必要があると決めて、「今、ここ」から離れてしまう自分を律している…
と自らの毎朝の鏡に向かって問いかける習慣について、学生を前に演壇で伝えたのです。
『今、ここ』に集中して生きることの価値、大切さ!を伝えたかったのですね。
話は変わりますが…
お釈迦様が晩年、一番弟子から質問を受けました。
大変失礼ですが世尊よ「人生とは何ですか?」
これを聞きいたお釈迦様は…
我が弟子よ、よく聞き給え
「人生とは刹那です!」
※「刹那(せつな)」=「きわめて短い時間。瞬間。」
と、気の遠くなるような宇宙的長い時間、幾つの劫(こう)も生きているお釈迦様が…
一瞬一瞬のきわめて短い時間、瞬間が人生だ!と弟子に喝破したのです。
いかがだったでしょうか、改めて
『今、ここ』に集中して幸せに生きることの価値が見い出せます!!
かといって、ピダハンの人たちが言う「ねじれた頭」の私たちには難しい(^^;
せめて座禅か出来なくても、無心になれる穏やかな時間、ぜひ持ちたいですね!
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